今年は今までの年といささか異なり、TV取材の比率が大きくなった。今後どうなるかわからないが、活字がインターネットの影響もあって元気をなかなか取り戻せないでいる一方で、テレビはますます影響力を高め、元気がいい。ぼくはリサーチ、取材に深くかかわっても編集にかかわらない。その編集作業は活字にする労働とは比べ物にならないくらい大変な仕事であることは、少しの想像力があれば理解できるだろう。取材した100本のテープから、1つの番組を作るのだから、そのほとんどを捨てることになる。1時間インタビューしてもせいぜい使うのは2,3分だ。もったいないと言えばもったいないが、長いからインパクトがあるかというとそうではないところがミソである。短すぎてもインパクトはないが、ちょうどいい長さというのがあるのだ。
TVの影響力
TVの10秒の影響力は、雑誌の数ページの影響力よりも大きいと言えば、にわかに信じられないだろうが、自分がかかわったTV取材の番組を観ると、それが当たっていることがよくわかるのである。有名な女優がTVで、このレストランはおいしい、と一言言うだけで、雑誌のレストラン紹介よりもはるかに影響力がある。お店の紹介でも同じだ。10秒間TVで紹介されただけで、その店からその商品はあっという間になくなる。ただTVの影響は、長続きしない。活字は残るので、その影響はTVほどではないが、長続きする。ぼく自身はTV取材だけとか、雑誌の取材だけとか、どちらかに偏るよりも、バランスよくやるのが精神衛生にいいと思っている。まずTV取材は活字のそれと規模が違う(予算の桁数がまったく違う)ので、活字ではとても取材できないことが取材できる。これはジャーナリストにとっては非常に重要なことで、予算が少ないために取材ができないというのは、やはりよくない。カリフォルニア大学バークレー校のジャーナリズム科のシンシア・ゴーニー助教授は、長年の知己であるが、最近よくNational
Geographicの仕事をやるようになった、とこの前バークレーの洒落たレストランで昼食を一緒にしたときに言っていた。「この雑誌は、経費に関して一切の制限がないので、とことんやらせてくれる。自分で充分やったつもりでも、もっとやれ、経費のことは一切気にするなと言われた。稿料もあまりにもいいので、他の仕事がばからしくなってくるほどだ」と微笑みを浮かべていた。うらやましい限りである。そういう雑誌は残念ながら日本にはないが、これも英語の威力だとつくづく思う。
英語の威力
そういう意味で、今年は、特に英語の威力を改めて思い知らされたのだ。テーマとか、取材の深さとか、言語以外の条件がすべて同じだとしても、英語の本の市場は日本の少なくとも10倍と言われている。元FRB議長のアラン・グリーンスパンの自伝『波乱の時代』はアメリカで発売からまもなく、軽く100万部を超えたが、日本ではこの手の本が100万部売れることは、ありえない。100万部を超えるのは軽い内容の本だけである。アメリカでは、執筆契約と同時に払われるアドバンスも億単位であることがあるが、大体日本にはこのアドバンス制度がないから、問題外。このアドバンス制度を日本にも採り入れた方がいいことは論をまたない。ビル・クリントンの自伝では1千万ドル(約11億円)のアドバンスが払われたという。英語のままで世界中で読まれるからである。日本語で書いてもそれを読む外国人は稀である。英語の威力は日本語とは比較にならない。日本語で書くと日本人しか読まないと言っても過言ではない。また、この1年の、いろいろな雑誌の目次をみても、同じことを、翻訳ではなく英語で書いて、果たして英語圏の人が関心を持つテーマがどれだけあるかというとほとんどない、というのも悲しいことに事実である。ところが、英語で発表されている記事で、日本人も関心を持つ内容は多い。NYタイムズの友人が、「日本人のジャーナリストが書くテーマをもう少し世界的に関心度が高いものにした方がいい。同じテーマを英語で書いても内容に関心を持つ、英語圏の人はほとんどいない」と鋭く指摘していた。中国人作家のイーユン・リーは英語で小説を書いて、数々の賞を受賞したが、彼女も英語の威力は計り知れないと言っていた。だから、翻訳ではなく、英語で小説を書いているのである。元々日本人で英語で小説を書いている人は森恭子氏くらいしか知らないが、アメリカ人は基本的に翻訳を読まないということを彼女はよく理解している。
英語と日本語
ジャーナリズムの世界では、世界中どこに行っても最低英語ができて当たり前で、その部分は普通議論の対象にならないが、日本では今でも、母語である日本語が大切だと言って、英語を学習する前に日本語をしっかり学習せよ、と言っている。ぼくはこれに反論するつもりは毛頭ないが、英語や他の外国語をやると母語を客観的に見ることができるので、母語も上達するのである。相乗効果が出てくると言った方がいいだろう。「外国語を知らないものは、自国語についても何も知らない」というゲーテの名言があるが、その通りだと思う。ぼくが母語である日本語に関心を持ったのは、英語を学習してからだった。だから、英語を学習する前に母語をしっかり学習せよ、というのは正しいようで間違っている。同時にやればいいのである。日本文学を先に日本語で読み、次に英語で読むのもおもしろいものだ。翻訳の限界を知る最短距離である上に、英語をマスターする近道でもある。さらに、文学を原語で読むことがいかに重要かを知るきっかけにもなる。ただ、誤解を避けるために、やはり翻訳は重要であることも言っておく。
『クリエイティブ・クラスの世紀』の著者リチャード・フロリダ氏にインタビューしたときも「日本の大学は英語で教えるべきだ。そうしなければ優秀な頭脳が集まらない」と指摘していたが、これを、母語をおろそかにすることと勘違いする人がいるから始末に悪い。ぼくの教え子で、早稲田の国際教養学科に入った人がいるが、「授業がすべて英語で行われると思っていましたが、ある有名な教授でも最初の挨拶を英語でやるとあとは日本語で授業をやっています」といささか軽蔑するような笑いを浮かべていた。教授ともなれば、英語で普通に授業ができることがグローバル・スタンダードだと思うが、日本では英語で自分の専門の講義ができなくても教授になれるところが、日本を特異な国にしている。何回も言うが、英語で授業をやることと母語である日本語をおろそかにすることは別次元である。
今年は、アメリカや日本で、いろいろなパーティに出席する機会があったが、共通語は英語だ。バイリンガルのアメリカ人にも結構会った。大人になってから日本語をマスターしたアメリカ人にも複数会ったが、読み書きもみごとにマスターしている。そういう英語がネイティブである人も、英語の方が日本語よりもはるかに複雑だという。それだけ英語は難しいことはわかったとしても、世界共通語であるという厳然たる事実は変わらない。
日本が本質的に英語圏の人に相手にされていないことがわかっていても、個人レベルでみるとそのことを考えない方が対等に付き合える。相手も個人としてみてくれるので、切磋琢磨は欠かせない。漫画がアメリカだけではなく、世界を席巻していることは、嬉しいことだが、日本が世界に発信する情報はまだまだ少ないことも事実である。