取材で世界中の科学者、経済学者、政治学者らに直接会う機会があるのが、ぼくの職業の醍醐味だが、おもしろいのは、中途半端の人、つまり二流以下の人に取材を申し込むと断られることが多い。それ以上説得する気もしない。なぜならその段階でその人が二流であることを証明しているようなものだからだ。さらに、一流の人の解説は非常にわかりやすいが、二流の人の解説はわかりにくいことも特徴の一つだ。
もう一つは日本人でも一流の人に取材すると必ず英語が当たり前のようにできることだ。「英語なんかできなくても、専門ができればそれでいいのだ」と自分に言い聞かせている人ほど、専門知識はおろか、自分の位置が世界でどの辺にあるかもわかっていない。こちらは職業的にも地位的にもいろいろな人に接するので、どうしても比べてしまう。英語を母語としない人でも、一流の人は当たり前のように英語ができる。「英語なんかできなくても」と口にするのを聞いたことがない。
1987年にノーベル生理学・医学賞を受賞した利根川進博士もそうだった。受賞後の記者会見でも、アメリカ人記者から矢継ぎ早に飛んでくる質問に、みごとに流暢な、きちんとした英語で堂々と答えていた。エイズウィルス発見には込み入ったストーリーがあるが、それに深くかかわったフランスの科学者たちもみんなぼくの英語による質問にきちんとした英語で答えていた。万が一のときのために日仏の通訳を同行したが、まったく使う必要はなかった。数学のノーベル賞と言われるフィールズ賞を受賞した日本人は複数いるが、みんな当たり前のように英語ができる。アメリカの大学で、普通に英語で講義ができるほどだ。
英語はあくまでも手段であるが、英語ができなくても、通訳を雇うお金さえあればいい、と考えるのは二流以下である。英語は情報を得たり、翻訳されていない資料を人よりも早く読んだりするのに欠かせない。物事を正確に伝えるには言語しかない。芸術は人によって解釈がかなり異なるので、普段の意思伝達手段で使うことはできない。言語はいくらできてもできすぎることはないのだ。
英語の威力
まったく無名のアメリカ人が、英語で出版してベストセラーになると、世界的に有名になる。日本語でいくらベストセラーを出して有名になっても、日本を一歩出ると誰も知らない。例えば、日系アメリカ人の学者(母親は日本人)、フランシス・フクヤマ氏は、『歴史の終わり』で世界に名を馳せ、近著『アメリカの終わり』(原題:America At the Crossroads)を上梓したときは、やはり世界中の先進国で話題になった。彼とはアメリカでも日本でも何回かインタビューしたことがあるが、最近朝日新聞のインタビューで、興味深い答えをしている。
「日系米国人の研究者は日本だけの専門家になりがち。僕は日本語ができなかったからこそ、多様な問題にかかわることができた」
つまり、日本語ができなかったことが、プラスになっているということだ。もし、彼が日本の大学でどれほど優れた研究をして、日本語で本を出しても、世界には知られない。日本だけである。この差は、その人の一生のことを考えるとあまりにも大きいのではないか。あるいは、アメリカで日本に関する本を出しても、ここまで話題になることはない。フクヤマ氏もはっきり認めたが、アメリカは日本に関心がないからだ。村上春樹の作品の翻訳者の一人であるジェイ・ルービン氏も、昨秋にシアトルで取材したとき、アメリカ人は日本に関心がないと断言していた。日本を専門とするアメリカ人学者も異口同音にそう言う。
マルチ人間の時代
『フリーエージェント社会の到来』や『ハイ・コンセプト「新しいこと」を考え出す人の時代』の著者ダニエル・ピンク氏は、ゴア前副大統領のスピーチライターという蔭の存在であったが、フリーになって英語で本を出した暁には世界的に有名になった。彼とはアメリカでも日本でもよく会って話をするが、口癖のように言うのが、「英語が母語でよかった」という言葉だ。まったく同感である。
世界から見た場合、日本人だから美しい日本語ができなければならない、ということにはならない。最近「英語をやる前にまず日本語」とよく言われているが、世界からみると、日本語ができる、できないは関係ないのである。アメリカ人が外国語を勉強しないのは、英語が完全に世界を制覇した言語になったからであり、その傾向はますます強くなっていることは否定のしようがない。
アメリカに住んでいるときも、医師に取材することは多かった。「死ぬ権利」や「生殖補助医療」といった、社会と医学の接点にかかわる問題に昔から関心があり、そのテーマを扱った取材も数え切れないほどやってきたが、取材中、日本人にインタビューすることもある。世界的に名の通った、一流のアメリカ人の医師に取材を申し込んで、断られたことはない。実際に会って長時間取材すると、医学以外の分野、例えば文学や哲学にも精通しているので、なるほどと感心する。同じテーマで日本人に取材すると、とんちんかんな答えしか返ってこないことがある。英語もできなければ、医学以外の分野にも精通していない。単なる医者というだけだ。話していても幅がないのでおもしろくない。話が広がらない。関心の範囲が非常に狭いのだ。
最近、マンハッタンにある、マウント・サイナイ大学医学部に取材することがあったが、そこにはとてもおもしろいプログラムがある。アメリカの医学部に入るには、普通、アメリカかカナダの大学で理系の単位を80単位取り、さらにMCAT(Medical College Admission Test)という全国共通試験を受けなければならない。ところがこの医学部には、理系の単位をまったく取らなくても入学できる制度がある。プログラムを担当するデイビッド・マラー医師は「文学や歴史などを専攻している、文系の学生を大学2年のときに面接し、それだけで合格を決める。彼らは大学を卒業したら、この医学部への入学がその時点で決まる。大学3,4年で理系の単位を一つも取らなくてもいい」という。医学が科学ではなく、人間に深くかかわる分野であるからだ。さらに医学部入学後も、文学や芸術鑑賞の必須クラスもあり、エッセイも多く書かされるという。芸術鑑賞では美術館まで足を運び、音楽鑑賞ではリンカーン・センターでのコンサートを直接聴きに行く。その後活発な議論をして、エッセイを書かせる。文学や芸術を通して、議論するとみんな心を開く、というのだ。患者と接するには幅広い教養と共感できる能力が必要であるということだろう。
今求められるのはマルチ人間である。あるビジネス・スクールでは、入学してくる人のほとんどが何らかの楽器がプロ級に弾けるというから、MBAだけではもはや通用しなくなっていることは確かだ。このテーマで世界中で取材をしたピンク氏はこう断言した。
<昔のように専門分野だけできればいいという時代はもう終わった。今は理屈の左脳と直感の右脳の両方がバランスよく使えるマルチ人間の時代だ>